先日の、研究会で報告した。RQは、特別養護老人ホームの新人介護職員は看取りをどのように経験しているかで、調査は4名の方からの聴き取りであった。研究結果を、死ぬまでの間のケアと、亡くなるときのケアという軸で、結果を表現してみた。
そこで頂いたコメントを、文字おこしした。
看取りというトピック自体がですね、非常にシリアスな問題だなっていうのが最初の言葉から読み取れて。そういった非常にシリアスで、なかなか自分の中で解決できなかったり、悶々としてるっていうことをですね、図の中でどういう風に表わしていけばいいのかなっていう観点で、私は見させてもらいました。それで、おそらく、現場ではものすごい葛藤が起こってたりするんじゃないかなあと思い。不安であったり、不満であったり、不満足であったり、不安ですね。そこに大きな動きがあるということが、実はすごく現場に近いところじゃないかなあ。最後に考察がちょっと当たり前かなとおっしゃっていましたが、非常に理路整然としてフローが見えるがゆえに、人の葛藤と言うのでしょうか、どろどろとした行き場のない思いというのでしょうか、畏敬の念というのでしょうか。そういうようなことをお載せ頂くと、近いかなあと思います。あと看取りのことについては、海外なんかだと、そういうことに宗教観が入ったりすることがあるんです。まあ、そんなことを言うのは、私が住職をしていますので、そういう気がするんですども。動きをですね、入れていただくってことは、ご本人たちの、語っていただいている方たちの目線を多くするならば、非常に有用な解釈の仕方だという風な感じがしました。すみません意見です。
すみません。関連してなんですが。同じような、何かすごくスッキリしすぎていて、どこから何か切り込めばいいのかなと思って。左右に大きく矢印が出ている中で、援助のあり方と、目標の模索という言葉になって、いるんですけども。生きている間の援助を目標をこうしようするところが何か、あの、そしてあり方を探るという言葉と目標という言葉は、全然違うようなんだけれども、両方とも一体どうやったらいいのだろうと自分に問いがあり、やってみて、さらにさらに問いをまた練り直し、やってみてっていう、なんていうか。そこが援助も、臨死へのあり方というかそれへの向かい方というのは、同じものであるような気がするんですね。そこを模索目標としてしまうところが、ちょっともったいないと言うか、ここが、実は不安や不満足とこう言い切れないような、自分を知るような何か、問い直しがずっと続いているんじゃないのかなと、だから、模索目標という言葉でなく、一つ目の矢印をもう少し違う方向にできたら、何か見えてこないのかなと感じました。
私は、最後、経験した実感をどこにおくかという話がありましたけど、私はここで、この方達が何を経験して、何を実感したのかなというのを、もう少し具体的に示されると良いかなと思いました。つまりなんか、こういう経験を通して、問題解消のための頼りとして看護職と介護職の先輩に聞くというのもありましたけど、自らがこういう経験をさせてもらって、こう、学ぶって言うか、こう、対象者から教えてもらったことってあるのかなって、想像して聞いていたのですが。こういう経験した実感って、経験することでどういうことがわかったのだろうって。亡くなった人への思いって、どういう思いだったのかなって。そこがわかると、こういう方たちのサポートって、看護職が教えるとか、介護職が教えるっていうことだけじゃない、何か、方向が見つからないかな。ちょっと漠然としたコメントで申し訳ないですが。
すみません、看護に携わっていて、新人の看護師も全く同じ体験をしていて、ヤッパリ死は覚悟してはいますけど、ショックはかはり大きくて、立ち直るまでに、かなり色々なことがるのですね。その時にですね、私が1番大事だなって思うのは、死をどう受け止めるかっていうところだと思うんです。で、それがあって初めて次の段階にいけるっていうことになるんで、何かそこがちょっと抜けていて、周りがその、整理されているのが、何かすごくスッキリしすぎているかな。ていう印象です。もしかしてお一人の中でそういうものっていうのがあったのかなって思ったりする。ダメージを受けてからまた次の仕事に出られるまで、かなりエネルギーを要するというのが、看護の場合結構あるんで、その辺どうでしょうか?
あの。全体ちょっと、伺っていて感じていることですが。語られる内容は、割とあっさりした内容だった印象。私の感じたのは、あっさりしているなと感じました。それで、多くは、「先輩こうやってって言われたことをやっていた。この期間で。自分が先輩が言われることきちんとやっていくかが主な中心課題であった。自ら自分で本当に、こういったところに、関心があるですっていいながらも、どのようなというようなと聴くと、ちょっと、漠然としていく、そんな語りだったものですから、そこにはっきりとした、意見や葛藤も、まだ生々しく出てきていないないのかなというがあります。ただここにしっかりできていない言葉で、印象に残っているのが、看取りだけ一生懸命やっていてもしょうがないですねよ。他に37人もいますし、であるとか、こことこことの葛藤というのでしょうか亡くなっていくことは仕方が無いけれども、その中でもより良い援助、身体機能を落とさない援助っていうのが、できたんじゃないのかっていうのがありました。それどこへ行っているかなっと思うと、この辺に入っているんですね。
一ついいですか。本当に亡くなっていく瞬間ていうのは、ある種人生の完了と言うのでしょうか、完成というのでしょうか。なので、失われていくと同時に、看ていく者は、何かを得ていく作業でもあるという。目の前で亡くなって、喪失していく、何か大きなものを残されていくというような感じがあって、それはですね。また語りの中でどうかというのはさておきですね。かなり、人にとっては大きなことを引き受けることになる。となると、語りの中でその心情を拾おうとするならば、なんていうのでしょう。しち面倒くさい、理解するにはかなり困難を伴うような語りであってしかるべきじゃないかなあと、感じがしてならないです。ただ、なんていうのでしょうね。なので多分、あの想像でしかないのですが、そういうことのサインは、受け止められないなあという、受け止めるのは非常に大変だったなあというようなサインは、あちこちで出していただいているんじゃないかなという感じがしてならないんですよね。すみません憶測で物を申しまして。
皆さんのコメントで共通するのは、「スッキリし過ぎ」という点。確かに。言われてみれば、こんなにスッキリとらえてしまってよいのか?という疑問もある。それで思わず、「もっとドロドロしなくちゃダメだな」なんて気がしてしまった。
今は、「新人看護師は看取りをどのように体験しているのか?」という問いを立てました。新人看護師さんにたまたま聞き取りができたのだけど、そのテキストを読み取る際に、このドロドロにすこしでも迫ろうと考えたのです。そこでとった策が、読書。
内田樹「死者としての他者:ラカンによるレヴィナス」には、こうある。
私たちがレヴィナスを繰り返し読んで倦まないのは、そこに私たちが日常生活の中で経験する「ことばにならない」ような要素、「哲学的」語彙のうちに回収されることでその痛切さを失ってしまうような論件が、レヴィナスのうちには、「謎」のままに維持されているを実感するからである。
新人看護師さんは、あーとかうーとか言っていた。分からないとも何度も言った。それは、新人看護師にとって、死および看取りは、もちろんドロドロしており、「ことばにならない」ことであり、その痛切さは表現できない物として、無限なる(他我)空間に漂っているということなのではないか。
新人は看取りをどのように経験しているか?とは、もはや「ことばにならない」ものとして経験しているというとらえ方ができよう。しかし、それでは、あまりにおバカ的。
なので、他の人と共有するためには、何らかのことばをあてはめてみることは避けられない。ある場面の痛切さは、個人に閉じられた、固有のものである。それを、他者との間で了解可能にするには。それによって痛切さを失わせてしまうことは、仕方が無いのではないかと思う。
0 件のコメント:
コメントを投稿