2011年10月17日月曜日

ずいぶん更新をサボった

自分のブログを見るのも久しぶりです。
職場の情報機器が入れ替えに伴い、自分のパソコンも変わったのです。
で、ブログをしていたことも、何となく忘れるというか、気にせずにいました。

新年度から、新たに自分が所属先が増えてしまい、えらく忙しいような気がする日々です。
実際には、忙しく思っているだけで、そのわりに成果は上がっていないという、何とも情けない状態です。

今は、自分の研究について、考え事をしていました。

看取りを行う人は、自分なりの死生観を持つことが大事と言われる。
死生観とは、死または生についての理解というか知恵と言える。
でも、それは自分がどう考えるかであって、他の人といっしょではない。

まあ、多くの人の場合、日頃からそれほど真剣に死や生を考えたことが無いだろう。
そういう人から比べて、看護や介護で日常業務上で人の死に接し、死や生について考えている人は、対象者よりも死生観を持っていると思う。

この場合、ケア提供者の自分は死をこう思うという死生観のもとで、死の看取りケアに携わることが可能なのかもしれない。
しかし、死について深く考察を続けてきた人、例えば淀川キリスト教病院医師の柏木哲夫先生やサ犠牲(サクリファイズ)の著者の柳田邦男氏が、自分の目の前にいて、その人の看取りをなんて、想像も及ばない。(柏木先生・柳田先生、こんな例に出して申し訳ございません)

もう少し、自分の死生観も重要であるが、死を間近にしている高齢者は死をどのように受け止めているかというような知識がないと、看取るということは困難なのではないか。
それも、臨終時はこうしてほしいとか、どこで亡くなりたいの次元で理解するのでは無くて、なぜそうしたいのか、その人の死生観や人生観、価値観を探求する関わりが必要なのでは無いかと感じる。そうでないと、その人の希望が叶えられない場合、職員は救われない気がするから。

2011年3月2日水曜日

新人看護師指導者研修

私のこんな拙くてしょぼいブログを、読んでいる人がいることに気付いた。驚いた。

一番読まれているのは、新人看護師指導者研修についてであった。

実は、9月に、新人看護師指導のあり方をテーマにした勉強会があり、そこで、新人看護師指導のあり方というテーマで1時間程度話をしました。その時にどんな話しをしようかと、うだうだしている気持ちを書いてものでした。読まれた方、中身が無くて申し訳ありませんでした。

その時の話の内容をアップしておこうと思います。

焦点は、指導者(プリセプターとか、そのほかの先輩とか)の立場からみた、新人看護師とのコミュニケーションについてであり、特に関係に困難さを感じる場合を考えてみることとしていた。

話題の概要は以下のようなことである。

指導者が新人との関係にストレスを感じている場合、新人さんも同様に感じているだろう。そして、双方ともが自分がイライラする原因は相手にあると思いがちである。しかし、イライラは両者によって、コミュニケーションがうまくいかないことでもたらされるはず。そして、コミュニケーションは、自分と相手との間にあるものであり、双方によってあり方が形成される。したがって、要因は双方の関係性にあると考える。
イライラしないためには、相手とのコミュニケーションを円滑にすることが大切。コミュニケーションが円滑でない理由に、なぜそのような話をするのかという、目的や関心のずれがある。なので、相手はなぜそのようなことを言うのか、何に関心を持っているのかを読み取るコミュニケーションが必要である。そのための努力は双方に必要であるが、立場上、特に指導者の側に強く求められるのではないか。

参加者は、真剣に聞いてくださったように思うが、質問はなかった。

この勉強会は、もう一つ講演を聴いた後に、数名のグループに分かれて意見し、その内容を発表することになっていた。その発表を聞いたのだが、私以外の方の講演の内容は、発表に引用されていたが、私の講演内容を引用したグループはなかった。

発表の最後に、私にコメントを言う機会が与えられた。そこでこんなコメントを言った。
「指導者の側にも、指導することの意図や関心がどこにあるかが異なる階層があるみたいだと感じた。それは、看護部長など管理レベルでは『新人看護師の離職防止・定着』、新人指導者研究を企画する教育担当者レベルでは『新人看護師が一人前に成長すること』、3年目くらいの直接指導する人たちは『患者さんの生命や安全の確保』に関心が向きがちになるのではないか。すべて、新人看護師指導の目的であるが、指導者の側にも様々な認識のずれがあり、それを共通理解することが必要であると感じた」ということである。これは、その時の思いつきであるが、このコメントも、皆さんは真剣に聞いて下さり、メモを取っておられる人もいた。

2か月後、この講演を聞いた看護師さんが勤務する病院から、病院内で講演をしてほしいという依頼がきた。
その講演は来週です。

2011年1月26日水曜日

大切なケア

先週、実習に行ってきました。実習生は大学2年生。実習の目的は、さまざまな場で生活する高齢者の生活を理解することである。実習方法は、高齢者の活動グループ(老人クラブや自主サークル)と介護施設に、それぞれ1日ずつ訪問し、活動に参加し観察やコミュニケーションをとることを通じて、高齢者について理解するものである。


その中で、一人の実習生Aさんが印象に残った。Aさんは、一生懸命に取り組んでいた。高齢者によるボランティアサークルと、デイサービスに行った。デイサービスでは、その日が初めての利用という高齢者に出会った。その高齢者はずっと、「娘がここに連れてきた。どうしてこんなところに来なくてはいけないのか。娘が自分の貯金通帳を勝手にどこかにやってしまった」と、ずっと不満を述べていた。

Aさんは、実習記録に、「デイサービスはいいところ」と書きながら、その高齢者のことを考えていた。

その人が実習の最後に書いた学びを、本人許可を得て紹介。



今回の実習を通して、老いによる身体機能や精神機能の変化を受け入れるには、誰でも受容していく過程が必要であり、時間はかかるであろうが、今置かれている状況を受け入れていくことが重要である。

しかし、老いていく自分を簡単には受け入れることなどできないものである。

それは、今までの生活と比較して、「今はもう私にできることなどない。毎日がつまらない」と思ってしまうこともあるのだ。高齢者の人たちも、私たちと同じような時代があり、社会人として働いていた時代があり、親として子育てをしていた時代があったのである。たくさんの数えきれない経験を積み、時には困難に立ち向かいながらも長い人生を生きてきたのである。そうやってできていたことが、だんだんとできなくなっていく自分を受け入れるのは、簡単なはずではなく、それをどうやって受け入れていくかという過程が非常に大切なことなのである。



そうだ。私たちは、目先の今の状況を問題にしがちである。高齢者がデイサービスに来て、落ちつきがなく歩き回る、スタッフに誘導に従わない、他の人の悪口や文句を言う、大声で怒鳴る。そのこと自体を問題と考える。
それで、そうならないような対応や声掛けが、望ましい、または良いかかわりであると考える。それは正しいが、でも、悪口や文句、大声を出したから、悪い不適切なかかわりだったと言えるのかと言えば、そうではないと思う。
高齢者がデイサービスに来て、悪口や文句、を言うのは何故なのか。なんて言。
「あれは私のお金だ家だ、娘が取ってしまった」。娘は取ったのではなく、財産管理ができなくなった母親に代わって、財産を管理しようとしたのだ。
「あれは私のお金だ家だ、娘が取ってしまった」という言葉は、自分が管理できるという意識と、母親は管理できなくなってために娘が財産管理するという事実との差によって生まれている。認知症の場合、自分の認識と違う事実に直面する。
私たちは、落ち着いて過ごしてほしいと願っている。それは、今の状況に適応しろと言っていることに他ならない。そんな、自分の認識と違うものを受容し、そういう人ばかりいる環境に適応できるのか?非常に困難であることは間違いない。
では、大声を出さなければ受容したことになるのか?大声を出さないこと自体は、目的にならないはずだ。さらに、大声を出すような不安に陥らないようにすることも、厳密には目的にならないのではないか。
自分の現状と向き合い、混乱するときだって誰しもある。それは、高齢者の場合非常にしばしば訪れやすくなるだけ。そう考えると、不安を感じて大声を出しながらでも、時に自分が安心できることが自然なのではないか。
いつ安心が来るかはわからない。
不安があっても、それが悪いケアではない。不安があるから安心がある。不安が無ければ安心はない。不安に向き合うから、安心がある。
さらに、不安なのは避けられない。ぬぐえない不安はどうするのか?安心は、他の人も不安を持ちながら、立ち向かっていることによってもたらされるのではないか。
ケア提供者に求められるのは、人生にある不安に対して真摯に向き合う姿勢と、その不安の内容を共有できるコミュニケーション能力ではないか。

2011年1月13日木曜日

明日の作戦

ここのところ学生のことを考える機会がなかった。あすは、お正月休みが明けて、久しぶりのゼミがあるので、何がどうなるのだろうと考えてみた。
年末の最後のゼミで私は、「1年の基礎教養ゼミだからと言って、A4用紙1枚のレポートで良い(大学に届け出義務があるのはこれだけ)とか考えず、思うところを全部出しきる論文にしてください。枚数無制限。年明けは、それぞれが発表です!」などと高らかに宣言し、休みに入ってしまった。
ちょっと油断していたけど、その続きが明日。それで、どうしようと思い始めたのです。
私は1年生に、自分なりに関心を持ち、自分なりに解釈してもらえると良いなあと感じました。その上で、それを表現してもらう。
この中で、2か所、手助けするポイントがありそう。
一つ目のポイントは、自分なりの解釈。自分の読み取りや解釈に対して、これでよいのか不安を持つ人が多い。だいたい、自分一人の解釈なんてそれほど深くないので、それで良いとか正しいなんてことにはならないのが当然なのです。ここでは、他人の経験を聞き取って、自分が解釈すること自体が重要。そういった経験なしに、解釈の質は上がらないのですから。だからここでの手助けが必要な人については、どう解釈したの?と尋ね。うんうんと聞いてあげるという戦略をとる。そうすりゃあ、ああ聞いてくれるだけの内容を持っているのだという安心を得る。それが、次の意見を引き出すことになる。
二つ目のポイントは、自分の解釈を表現すること。一つ目のポイントよりも、この二つ目を不安に思う人は少ないのですが。実はこっちが重要。解釈をした段階で、自分は満足しています。わかったって!って。でも、どういったことから、何が分かったと思うのか。それはどうしてそのように思うのかを説明せねば、他の人に伝わらない。でも本人は自分が発見したことに喜び、他の人のことまで気が回らないものである(自分がそうである)。多くの人がここで手助けが必要(なはずだ)。うんうんと聞いた最後に、「じゃあ初めから一人で説明してみて」というと、その困難さを実感するのではないか。意地悪だがこれも必要な試練。私がしたくてしているのではないのよ。

2010年12月17日金曜日

アンケート

質問紙が送られてきました。
看護学実習における援助的人間関係形成能力の育成に関する調査のようです。

援助的人間関係形成能力とはなんだろう?と思って、依頼文を読むと、「みんながどうのように考えるのかを調査する」のだそうです。
なるほど。

そこで自分の考えて、このように記入しました。

看護上の健康問題や生活障害の改善に向け、対象者の意見や思いを尊重しながら、主体的に交流できる力と考えました。
意見や思いがあらわれる基盤となる相手の状況を知って、意見や思いの意味を自分なりにとらえることが必要になると思います。
こういった思考ができることで、個々の看護師にとっては、自分の看護の意味を理解することや医療チームにおけるコミュニケーションがスムースになることにつながると思います。

所要時間20分程度と書いてあるけど、20分以上かかったです。

2010年12月15日水曜日

(斉藤清二先生の)メタファーについて

私が社会に対して貢献していこうと考えた際に、大切なのはマネジメントではないかという気がしてきた。私自身が、何かの力をもち(専門知識や技術)ながら、ささやかなその力を資源にして、周囲にいる人を結び付けていく。きっと、私にその力がなければ周囲に人は集まらないだろう。その場合、結びつける人がいない。まず周囲に集める力があって、そのうえで結びつける力(集団のマネジメント力や個人のナラティブを受け止める力)が必要なのでしょう。


また、専門知識や技術は、単に方法論ではなくもっと原理的なものが良いのではないかと思う。

私にとって、一番身近に感じる専門知識や技術を支える原理は現象学的視点(自信なし)ですから、これによって導き出されるものによって周囲に人を集めることができればよさそう。

また、現象学的な視点は、相手の関心にそってその言動の意味を解そうとする姿勢でもあるので、マネジメントにも好都合のような気がする。

こういった、専門知識や技術があって、さらに他者とコミュニケーションできる場を作り出せれば、その場は人が人として成長発達できる場になるのではないか。

斉藤清二先生の、濡れた流木のメタファーは、この人が成長発達できるための環境が、生産&再生産されていく過程を表現したものと思った。

自分一人では乗り越えにくい壁にあたって、もともとの自分らしく動けない状態になったことを「濡れた」と表現し、本来できる姿を「燃えることができるもの」として、またそれは一定の場所にとどまらない性質を「流木」とし、濡れた状態から、他者が燃えるエネルギーで乾き、自分らしく動けるようになって燃え、そのエネルギーで他者を乾かし、乾いた人が燃える過程を「焚火」と表現した。

「焚火」というメタファーによって表現されるものは、人の相互作用から得られるエネルギーで、それによって乗り越えられる感覚を持たせる。それほど、生きていくことに大切なことを、人とのかかわりの中ではっきりと立ちあらわす。そんなマネジメントができればいいな。

うちのゼミは、どんなメタファーが良いか?

先日開かれた、トータルコミュニケーションフォーラム(富山大学主催)に行った。
高機能発達不均等学生への学生生活支援についてが大きなテーマ。

富山大学の斉藤清二先生を中心としたグループの取り組みは、対象者のナラティブに根ざした支援関係の構築とがあり、そのグループの発展展開に野中郁次郎先生の知識創造型マネジメント理論を活用したものであった。
また、ナラティブに根ざすという姿勢を基礎づけるのが、西條剛央先生の構造構成主義であった。

その成果は、うならされるものがある。うーみゅ。

この取り組みから自分が実践できることは何だろう。
自分も、ゼミを担当している。ゼミ生とこういった関係を作るのも悪くないな。ゼミ生のナラティブを聞く。
卒業していったゼミ生の支援も悪くない。

さて、ゼミをそういった場にする、そのためには、ゼミがそういった組織にならんとすることが、良いのだろう。
その際の駆動力とメタファーはなにが良いだろう。

斉藤清二先生の、「濡れた流木の焚火」というメタファーを、そのままいただくかな。