自分のブログを見るのも久しぶりです。
職場の情報機器が入れ替えに伴い、自分のパソコンも変わったのです。
で、ブログをしていたことも、何となく忘れるというか、気にせずにいました。
新年度から、新たに自分が所属先が増えてしまい、えらく忙しいような気がする日々です。
実際には、忙しく思っているだけで、そのわりに成果は上がっていないという、何とも情けない状態です。
今は、自分の研究について、考え事をしていました。
看取りを行う人は、自分なりの死生観を持つことが大事と言われる。
死生観とは、死または生についての理解というか知恵と言える。
でも、それは自分がどう考えるかであって、他の人といっしょではない。
まあ、多くの人の場合、日頃からそれほど真剣に死や生を考えたことが無いだろう。
そういう人から比べて、看護や介護で日常業務上で人の死に接し、死や生について考えている人は、対象者よりも死生観を持っていると思う。
この場合、ケア提供者の自分は死をこう思うという死生観のもとで、死の看取りケアに携わることが可能なのかもしれない。
しかし、死について深く考察を続けてきた人、例えば淀川キリスト教病院医師の柏木哲夫先生やサ犠牲(サクリファイズ)の著者の柳田邦男氏が、自分の目の前にいて、その人の看取りをなんて、想像も及ばない。(柏木先生・柳田先生、こんな例に出して申し訳ございません)
もう少し、自分の死生観も重要であるが、死を間近にしている高齢者は死をどのように受け止めているかというような知識がないと、看取るということは困難なのではないか。
それも、臨終時はこうしてほしいとか、どこで亡くなりたいの次元で理解するのでは無くて、なぜそうしたいのか、その人の死生観や人生観、価値観を探求する関わりが必要なのでは無いかと感じる。そうでないと、その人の希望が叶えられない場合、職員は救われない気がするから。
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