やせ我慢。
組織とは、その組織の外側からみると私的な組織に見えるが、組織内では公共的な存在となる。
その組織の私的な意見を、公共として発言し役割を担うことは、共同体内部に存する人間が、「ほんとうはしたくないのだがおれがやらないと誰もやらないようだからおれがやるか」とやせ我慢をして引き受ける。
公共的な私的と自分の本当の私的な理性が混ざっている人は、本来の公共性が私的であることをまったく理解できていない。公共的でないと処罰される恐怖を感じているから、他の人もその処罰を恐れると考える。
公共的な行動がとれる人は、自分の私的な理性と、公共体が外的に持つ私的な側面を意識して、公共的にふるまうことができている。
担いうるやせ我慢は、どのような我慢かによるのではないか。
S先生が、ワークショップを行うのは、やせ我慢か?
私が、N市民病院の研究相談を引き受けるのは、やせ我慢か?
この場合、公共は、組織は、どこにあるのか?何が、公共だろう?
何のためにしているのだろう?
私的な理性を、私的に使用しているだけか。ああそうか。
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