2011年1月26日水曜日

大切なケア

先週、実習に行ってきました。実習生は大学2年生。実習の目的は、さまざまな場で生活する高齢者の生活を理解することである。実習方法は、高齢者の活動グループ(老人クラブや自主サークル)と介護施設に、それぞれ1日ずつ訪問し、活動に参加し観察やコミュニケーションをとることを通じて、高齢者について理解するものである。


その中で、一人の実習生Aさんが印象に残った。Aさんは、一生懸命に取り組んでいた。高齢者によるボランティアサークルと、デイサービスに行った。デイサービスでは、その日が初めての利用という高齢者に出会った。その高齢者はずっと、「娘がここに連れてきた。どうしてこんなところに来なくてはいけないのか。娘が自分の貯金通帳を勝手にどこかにやってしまった」と、ずっと不満を述べていた。

Aさんは、実習記録に、「デイサービスはいいところ」と書きながら、その高齢者のことを考えていた。

その人が実習の最後に書いた学びを、本人許可を得て紹介。



今回の実習を通して、老いによる身体機能や精神機能の変化を受け入れるには、誰でも受容していく過程が必要であり、時間はかかるであろうが、今置かれている状況を受け入れていくことが重要である。

しかし、老いていく自分を簡単には受け入れることなどできないものである。

それは、今までの生活と比較して、「今はもう私にできることなどない。毎日がつまらない」と思ってしまうこともあるのだ。高齢者の人たちも、私たちと同じような時代があり、社会人として働いていた時代があり、親として子育てをしていた時代があったのである。たくさんの数えきれない経験を積み、時には困難に立ち向かいながらも長い人生を生きてきたのである。そうやってできていたことが、だんだんとできなくなっていく自分を受け入れるのは、簡単なはずではなく、それをどうやって受け入れていくかという過程が非常に大切なことなのである。



そうだ。私たちは、目先の今の状況を問題にしがちである。高齢者がデイサービスに来て、落ちつきがなく歩き回る、スタッフに誘導に従わない、他の人の悪口や文句を言う、大声で怒鳴る。そのこと自体を問題と考える。
それで、そうならないような対応や声掛けが、望ましい、または良いかかわりであると考える。それは正しいが、でも、悪口や文句、大声を出したから、悪い不適切なかかわりだったと言えるのかと言えば、そうではないと思う。
高齢者がデイサービスに来て、悪口や文句、を言うのは何故なのか。なんて言。
「あれは私のお金だ家だ、娘が取ってしまった」。娘は取ったのではなく、財産管理ができなくなった母親に代わって、財産を管理しようとしたのだ。
「あれは私のお金だ家だ、娘が取ってしまった」という言葉は、自分が管理できるという意識と、母親は管理できなくなってために娘が財産管理するという事実との差によって生まれている。認知症の場合、自分の認識と違う事実に直面する。
私たちは、落ち着いて過ごしてほしいと願っている。それは、今の状況に適応しろと言っていることに他ならない。そんな、自分の認識と違うものを受容し、そういう人ばかりいる環境に適応できるのか?非常に困難であることは間違いない。
では、大声を出さなければ受容したことになるのか?大声を出さないこと自体は、目的にならないはずだ。さらに、大声を出すような不安に陥らないようにすることも、厳密には目的にならないのではないか。
自分の現状と向き合い、混乱するときだって誰しもある。それは、高齢者の場合非常にしばしば訪れやすくなるだけ。そう考えると、不安を感じて大声を出しながらでも、時に自分が安心できることが自然なのではないか。
いつ安心が来るかはわからない。
不安があっても、それが悪いケアではない。不安があるから安心がある。不安が無ければ安心はない。不安に向き合うから、安心がある。
さらに、不安なのは避けられない。ぬぐえない不安はどうするのか?安心は、他の人も不安を持ちながら、立ち向かっていることによってもたらされるのではないか。
ケア提供者に求められるのは、人生にある不安に対して真摯に向き合う姿勢と、その不安の内容を共有できるコミュニケーション能力ではないか。

0 件のコメント: